目黒区 都立大学 歯科 呂歯科診療所 院長のエッセイ 禁煙の勧め 呂家のルーツ ニューヨークで演奏

目黒区 都立大学の歯医者 呂歯科診療所
院長のAfter Hours <エッセイ集>
呂院長のエッセイ集
●華音会演奏会より (2013年10月29日)

Duoの演奏による「Snow Field」をご覧下さい。
呂正博: ソプラノサックス/ 杉本周介: ピアノ

●天国のクラチャンへ

 その日の朝、私達夫婦は小雨模様の小樽カントリークラブにいた。かつて3度もこの名門クラブのチャンピョンに輝いた男は私の大学時代の親友。残念ながら彼はもういない。葬儀が始まる正午まで、彼と最後の19番ホールをクラブハウスでどうしても過ごしたかった。そしてソファーに腰掛け、ご家族に頼まれた弔辞を上手く読む練習をしてみたが、声にならなかった。

 君の病を知らされてから一体どのくらい経ったのだろうか。月に一度くらいの電話はたいていゴルフや仕事や家族の話。ところがある日、君と奥様が医者に余命半年と宣告され、夫婦で抱き合って泣いた時の話を僕に語った。

 それからの僕との電話の定期便は病状が進まないことを祈りつつも、受話器の向こう側ではいつも前向きに病気と闘う君達夫婦の元気な声に心打たれていた。そして毎週末には奥様と車を飛ばしては北海道の新鮮な野菜を調達し、我が家にまでその野菜を送っていただいた。

 君との出会いは市川の進学過程を終え、学部に上がった3年の頃。たまたま学生番号が隣だった。水道橋の階段教室も実習室も殆どが隣同士。君はよく中央ホールで卓球を、僕はJAZZ研でサックスを吹いていた。あの頃僕らは20歳そこそこ。あれから40年近くも経ったなんて。僕らは何も変わらない。

 君は卓球で培った勝負根性のせいか、いつも泰然自若としていた。僕らは特別学究肌ではなかったが、英美ちゃんのノートを借りて、二人とも一夜漬けの勉強でなんとか試験をクリヤーしていった。「国家試験受からなきゃ話にならんからな」というのが君の口癖だった。

 お互いに部活が忙しかったので、たまに休日が合うと、僕の実家に来たり、横浜を案内したりした。僕も夏休みには小樽の君の実家でお世話になった。ところで横浜の山下公園でちょいと可愛い女の子に声をかけたのは良い思い出になっている。君は話しかけるのが本当にうまかった。

 卒業間際に君は同じ小樽出身で小児歯科勤務のあっちゃんと運命的な出会いがあった。僕もしばらく片思いだった英美に恋をして、君が参謀役になってくれた。お互いに結婚をし、君は札幌で、僕は熱海で研修をした。一足先に開業した君は忙しい会務の傍ら、徐々にゴルフ道を極めることになる。君の上司が履いていたという当時は高嶺の花のFOOT JOYのシューズや、本間やマクレガーの高級ゴルフクラブの話。そして日本有数の名門小樽カントリークラブへの入会。そしてクラブチャンピョン。全てが羨ましかった。

 多少奥様の犠牲の上にあったのは確かであろう。僕に言われたくないといえばその通り。それにしても3回のクラブチャンピョンは本当に立派。僕はよくゴルフ仲間に君の自慢話をする。「小樽のクラチャンは私の親友です」と。これからもその自慢話をすることを許して貰いたい。

 去年の9月30日。札幌で開かれる障害者学会に合わせて久しぶりに君とのゴルフを計画した。その頃は体調が良さそうだった。このまま奇跡が起これと僕も願っていた。ところがその一週間前に入院したという。君は「予定通りおまえは小樽カントリーでゴルフをしろ」と。「その後、見舞いに来い」と言い張り僕を困らせた。とてもそんな気分にはなれなかった。

 その日の夕方君は病院の外泊許可をとってご家族と小樽駅まで車で迎えにきてくれた。相変わらず背が高く、格好よく助手席から降りて、運動神経よろしくサッサッと歩いてみせてくれた姿がうれしかった。君は何も変わっていない。

 時は一刻一刻と過ぎ行き、人は無常にも誕生して、いつかは滅びる。しかし魂は不滅だという。昨晩から小樽へ来て君のご自慢の子供達や歯科医師会の先生方にお会いすることができて僕は確信した。君の59年の人生は大成功だと。正に18ホールのナイスゲーム。来春結婚が決まったご長女や、間もなく赤ちゃんが生まれるご次女。つい最近プロポーズされたというご三女。そして当時ついに男の子が誕生したと喜んでいた子は今では北大卒の歯科研修生。君の魂は間違いなく彼等に宿っているではないか。

 久しぶりに卒業アルバムを開いてみた。D班の寄せ書きをみたら、君は縦に2列で、左には「皆さん卓球を練習して下さい」。右には「あー疲れた」とあった。当時確か国家試験前に書いたのか、皆結構疲れていた。そして僕はその隣に中国語で二文字だけ書いていた。その二文字で今日のおしゃべりは終わりにしよう。昨晩から多くの方が君とのお別れを惜しんでいる。これ以上君を独り占めするわけにはいかない。でも僕らの間にさよならはない。 また天国のクラチャンに会いたい。  「再見」

呂正博

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●五百円札の思い出

 呂歯科診療所は今年で開業30周年を迎える。
東京歯科大学を1979年に卒業したので、臨床歴は33年になる。
いずれ歯周病科大学院在学中の次男の宗彦にバトンを渡すにしても、まだまだ現役を続けるつもりである。
日々患者さまの痛みや要望に応えることに歯科医師としての醍醐味を感じる。

500円札 私の診療所の奥には小さな院長室がある。備えつけのテーブルには診療録用のパソコンや専門書が置いてある。テーブルの引き出しには一枚の紙幣がしまってある。私の学生時代の貴重な体験に繋がる五百円札である。

 それは登院(病院臨床実習)して間もない5年生の秋の頃のこと。私達学生はまだまだ臨床見学や先輩の医局員の補助が中心で、単独で直接患者さまの口の中を触れることはない頃の出来事である。
 私と英美(ずっとこのコンビでやってます)は休日にテニス道具を持って池袋駅で仲間と待ち合わせていた。もともと川崎市出身の私も、目黒区出身の英美も池袋はめったに利用しない駅。そのせいか待ち合わせの時間になっても仲間となかなか会えないでいた。当時は携帯電話もない。友人の自宅の電話番号も持ち合わせていなかった。仲間とのテニスはあきらめかけていた。

 そこへ突然初老の女性が涙を浮かべながら私達二人に向かってふらふらと歩いてきた。自分の口の中を指差しながら“痛い、痛い、助けて”と言ってきた。白衣も着ていない二人の若者にどうして助けをと思った。一瞬たじろぎながらも私は“どうしましたか”と訊ねると“刺さった、刺さった”と泣いている。もう診るしかないと思い、その場で立ったまま口の中を覗いてみた。下顎の部分入れ歯のクラスプ(はりがね) が左の頬粘膜に刺さっていた。
入れ歯のクラプス 針よりも太いクラスプが刺さればこれはかなりの痛みである。入れ歯の本体部分をつかんではずそうと試したが、どうやら彎曲したクラスプが頬に深く食い込んでいてとれない。何か頬を押さえる器具が必要だと思った。“何か細い物ないかな”と私がつぶやくと、本人が“鉛筆があります”といってハンドバッグの中の手帳を出してきた。表紙には参議院議員手帳の文字。そういえばどことなく市川房江さんに似た風貌。確認することもなくその鉛筆を借りた。
 私は右手で鉛筆を持ち、頬粘膜を押さえた。左手で入れ歯の本体を引っ張り、刺さっていたクラスプをそっと抜いた。たちまち出血してきたので、英美が彼女の頬を圧迫しながら洗面所へ連れて行った。
 ほどなく止血して私の前に二人が戻ってきた。聞けばぐらぐらしてきたクラスプの支えの歯を歯科医院で抜いてきた帰りだという。支えを失った入れ歯が何かの瞬間に向きを変えクラスプが頬に刺さったに違いない。“歯を抜いたのであれば、その部分のクラスプは取っていただいたほうが安全ですね。私達は東京歯科大学の学生です”。助けを求めた若者が実は歯科大生であることを知ると、たいそうこの出会いに驚き、感謝していた。お礼に是非名前と住所をといわれたが丁重にお断りした。そしてせめてのお礼にと渡されたのがこの五百円札。

 このあと私達は興奮醒やまぬまま蒲田駅ビルで開業している先輩にこのことを報告しに行った。先輩も喜んでくれて私達にご馳走してくれたのを良く覚えている。
 歯科医師の卵時代に期せずして遭遇したハプニングであったが、人の痛みを開放することにより人を診る喜び、弱者を助ける尊さを学ぶ思い出深い一日となった。
 初心忘るべからずというが、私はこの一枚の五百円札をお守りのように大切にしまってある。

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●呂家ルーツを訪ねて

 私の父、呂烈通は1915年生まれ。台湾の東側、花蓮懸出身。大理石の産地として有名だ。日本が1895年からの五十年間は台湾を台湾総督府として統治していた為、父は幼少の頃より日本の植民地教育を受けた。その為父の日本語はネイティブであった。
 極貧の家庭に生まれ、2歳年下の弟呂利通(叔父さん)と二人で、日本から派遣された校長先生のお宅で寝食を共にした。当時日本の尋常(公)小学校は通学する家庭に日当や食費を支給して、教育の普及を図ろうとした。それに対して、特に中産階級は強く反発し、植民地教育に抵抗した。つまり、植民地統治に従う者には物品を支給し、一方で反逆者は取り締まるという「飴と鞭」の政策を有効に用いることで、殖民地支配の体制を確立した。呂兄弟だけが特別な扱いを受けたわけではないと思うが、先生のお世話をしながら少年期を過ごしたという。父は真面目さも手伝って勉強は良くできたらしい。
 中学生になると日本人の歯科医のお宅に丁稚奉公し、後にその先生のお世話で日本の歯科医師の資格を当時の京城(現ソウル)で取得することになる。

 当時の台湾は日本に占領されていながら、逆に親日家が多いのが不思議でならなかった。70余年前に遡る戦争の傷跡深い中国の反日感情や、同様に日本の統治を経験している韓国の強い反日感情とは大違いである。台湾の65歳以上の日本語族と呼ばれている人達を中心とした日本贔屓は今でも変わらない。その訳は正しいかどうかは分からないが、1898年に第4代児玉源太郎総督の下で民政長官に就任した後藤新平に代表されるような、優秀で良識のある人が多かったということだ。彼らは台湾のインフラの整備を一生懸命に施した。台湾の近代化に貢献したのだ。東京よりも先んじて上下水道の整備をし、1941年までに133ヵ所の地域で上下水道を完備した。当時流行していた伝染病といえば、マラリア、ペスト、コレラ、赤痢、発疹チフス、腸チフス、ジフテリア、猩紅熱など。これらの伝染病は水が変わることにより撲滅に繋がったのだ。
 加えて日本時代に建設された道路は幹線道路と市街地道路を含めて一万七千キロ。約三千の橋梁が建設された。日本領有以前は馬さえ歩けない状況。道は通常踏み固めればある程度は自然にできるものだが、亜熱帯に属する台湾は、台風が来る度に全てが流されてしまう。雨が上がれば雑草が芽を出す。当時大陸移民の村を一歩出れば先住民のテリトリー。
近寄れば襲われる危険もあった。
 鉄道の建設は1899年に着手され、1908年に基隆から高雄まで450キロの縦貫鉄道が完成。この鉄道は現在も使われている。その他台湾の近代化の基盤となったのは日月潭ダム建設と水力発電であった。
 その日本人への感謝の気持ちの表れか、日本が遺した神社仏閣などは今でも大切に保存されている。日本軍の兵隊服、立ち居振る舞いなどは、その後大陸から逃げてきた国民党軍に比べると、呂烈通少年の目には相当格好良く見えたらしい。幼少の頃の遊びといえば、日本の兵隊さんの真似をすることだったとか。

 人格者であった小学校の校長先生や、歯科医を志すきっかけを作ってくださった日本人の歯科医の影響で、父は日本に渡ることを決意する。弟の利通(叔父さん)も、兄貴は頭が良いから、家のことは自分に任せて、歯科医になって幸福な生活を日本で送るよう後押ししてくれたと聞く。台湾を出国して、京城(当時朝鮮の日本時代)で資格試験を十数科目合格した後、数科目を残した時点で結核を患い台湾へ一時帰国。回復後再び京城へ渡り受験。免許取得後、暫くは現地で歯科医院を開業していた。終戦間際に戦火を潜り抜け、憧れの日本に渡った。戦後の動乱下では関西でサッカリンを売り、財を成す。その後神奈川県川崎市で13歳年下の日本人の母と結婚し、歯科医院を開業。その後ある事情があり、台湾への帰郷は許されなかった。
 父は親中派であった。呂家の先祖は福建省のアモイ当たりであることはおぼろげに聞かされていた。その事が父の思想に影響したのかどうかは分からないが、何れにしても父の感覚では中国は一つであった。「台湾のような小さな国が独立しても仕方がない。同じ言葉を使う国が二つに分かれることがおかしい」と常々語っていた。かくして私達兄弟は横浜市の山手にある大陸系の横浜山手中華学校に通うことになる。大陸系の学校は神戸にもあり、台湾系の中華学校は東京四谷と横浜山下町にある。もちろん両者の交流は殆どない。
 現在、世界的にも台湾を国として認めている国は少なく、日本との国交はない。大使館に代わる組織は港区白金にある亜東協会である。つまり父は長い間この機関のブラックリストに載ることになる。私が中華学校に入学したのが1960年。父が45歳。私が歯科大学を卒業したのが1979年。父が64歳。四歳下の弟が大学を卒業したのが、父が70歳の頃だ。その頃からである。望郷の念が生じてきた。二十代後半に台湾を出て以来、半世紀近く訪れていない台湾に帰りたくなった。何よりもたまらなく弟の利通(叔父さん)に会いたくなった。
 父は白金の亜東協会の門を叩いた。そしてキリスト教ならぬ踏み絵をしたのだ。中華人民共和国のパスポートを捨て、いわゆる中華民国のパスポートに切り替えた。そして終に念願叶って渡航の許可が下りた。この半世紀ぶりの訪台の様子は台湾のメジャーな新聞の一面に大々的に報道された。空港での兄弟の再会の様子はさぞかし物語を見るような感涙物であったに違いない。この渡航をきっかけに二人は年に幾度か台湾や日本での再会を楽しんだ。二人が街を闊歩する時は互いに妻とでなく、兄弟で手をつないでいた。寝る時も隣同士で仲良く寝た。
 それから数年後の1989年に、父が元気なうちに私達兄弟を台湾に案内すると言い出し、一族15人で台湾旅行を計画した。日本生まれの私達兄弟にとって、初めて見る台湾であった。当時の国籍法では子は世帯主の国籍になるので、私は38歳頃までは中国籍であった。私の日本人の母も父との結婚以来、国籍は中国であった。呂家の本籍は中国台湾省花蓮懸玉里鎮大里。何かの手続きの際には必ずこの行ったこともない地名を書いた。勿論、外国人登録済証明書は肌身離さず携行した。指紋押捺もしかりである。
 記憶が若干曖昧だが、この台湾旅行の際に私達兄弟は亜東協会の計らいでいわゆる中華民国のパスポートを取得した。後に帰化の申請をするまでは確かに二枚のパスポートを所持していた。これでいいのかと思いながらも父の言うままに従った。

 私は26歳時に歯科大学の日本人の同級生と結婚し、長男と次男は私の中国籍。三人目の長女が誕生する頃には日本の国籍法も徐々に変わり、無条件で母親の姓を名乗らされた。つまり一家族二世帯主である。兄弟で姓が異なるのも変な話なので、家庭裁判所へ行き、改姓の手続きをした。その後日本籍を取得する時も、縁あって呂家に生まれた以上、呂という姓だけは守ろうという拘りは持った。
 中華民国のパスポートを取得し、私達兄弟は難なく台湾に入国することができた。私は初めて見る台湾で、初めて会う叔父さんや従兄弟たちと親交を深めた。そして幼い頃より書き続けた本籍地が果たしてどういう場所なのかを知りたがる自分がいたことをよく覚えている。
 父は80歳を過ぎた頃から心身共に衰えてきた。日課となっていたテニスは六十の手習いで義兄に手ほどきを受けたものだが、次第に回数が減った。大好きだった車の運転もあやしくなっていた。口数も相当減った。ちょうど痴呆が認知症と呼ばれ出した頃だ。誤嚥性肺炎を回避する為に胃ろう形成手術を受け、完全流動食となり衰弱していく父を見て母は提言した。「お墓を用意しなきゃ」。
 華僑一世として日本に永住した呂家には墓がなかった。候補地はいくつか上がったが、結局横浜市山元町にある中国人専用墓地、中華儀荘の一画を手にいれ母も安心した。ところが墓地使用料を納めた一週間後。ちょうど午前の診療を終えた頃、長姉からの電話が鳴り、母の具合が悪く救急車で搬送したと言う。慌てて病院に駆け付けたものの、母はさよならも言わずに逝ってしまった。持病の糖尿病による心筋梗塞だった。厳格で倹約家の父に比べ、母は大盤振る舞いが大好きな優しい人柄で、孫達には特に人気があった。誰もがいつかは経験することとはいえ、衰弱した父より先の母の突然死には流石に堪えた。

 それから三年後の3月5日、父は大好きな桜を見ずして92歳の生涯を終えた。私はすぐさま台湾の利通叔父さんに訃報を伝え、分骨すべきかどうかを相談した。「墓はきれいに整備しているし、兄貴は花蓮に帰るべきだ」。
 2008年2月15日。呂家一行12人は父の一周忌を前に台湾へ向け成田空港から飛び立とうとしていた。納骨の旅のメンバーは姉一家3人と弟一家4人、そして私の家族5人。皆何とかスケジュールを調整して成田に集合した。呂家ルーツを訪ねて2納骨の儀式の段取りは全て利通叔父さんの長女の香蘭姉さんに任せてあった。香蘭姉さんは当たり前のように風水師に相談し、納骨の日時を2月16日の11時15分から45分の間と指定した。私達はそれに従い、2泊3日の旅程を組んだ。
 香蘭姉さんは父の魂も必ず一緒に連れて来るようにと私に告げた。「一番大事なことよ。実家から骨壷を抱いて出る時も、車や飛行機に乗る時も、海や川や、空や雲の様子をお父さんに話しかけながら来なさい」。
 旅程の一日目は台北から国内線で花蓮空港に飛び、市内ホテル泊。翌朝専用バスで二時間かけ玉里へ。この国内線は1981年に脚本家で直木賞作家の向田邦子さんが、取材旅行中に飛行機事故に遭い亡くなっている。ちょうど私の初めての台湾旅行の数年前のことで、この時はさすがに怖くて鉄道を利用した。

 桃園(台北)空港に着き、入管を通過して荷物受取場で、早く待合にいる現地旅行社の康女史に会いたいと思っていた。その時私の長男秀彦が血相を変えて飛んで来た。「大変だよ!まーちん叔父ちゃんが入管を通過できない」、「えっ!正仁が」。私は逆走して弟が足止めされている入管に向かった。幾人かの係官に囲まれ押し問答していた。「どうした」、「よく分からないけど入国できならしい」。 私は拙い中国語で事情を探った。どうやらVISAが必要らしい。とはいえ日本のパスポートならVISAは不要のはずだ。弟以外は全員日本のパスポートだが、彼は帰化せずに中華民国のパスポートを持っていた。元来私達兄弟は台湾で出生したわけではないので、戸籍がない。従って日本の亜東協会発行のパスポートだけでは入国できないという。だとすれば旅行社のミスだ。「こんな馬鹿なことはない!客人はVISAなしで通しても、台湾の国籍を持つ人間が入国でできないなんてことがあるのか」。私の怒りの中国語がどれ程通じたかどうかは分からないが、秀彦も英語で応戦した。乗り継ぎの時間も迫り、待合にいる旅行社の康女史に説明してほしいと頼んではみたが断られた。
 ある係官は何度か弟のパスポートを持っては上層部のいる部屋に行き、局面を打開してくれようとしていた。「私達はただ父の納骨に来ただけで、何とか入国させてほしい」と懇願した。だが結局許可は下りなかった。弟は涙を浮かべながら「兄貴、これ以上の抗議は危ないからもう止めたほうがいい。俺はもう諦めるから行ってくれ。家族を宜しく頼む」。係官に連れ去られ、たった今乗ってきた飛行機に乗せられるようであった。強制送還だ。私は意地悪そうな係官に向かって「本当にだめなのか」、「当たり前だ」。
 こんな事があるのかと、やるせない気持で皆が待つロビーに向かった。義妹の由美子さんが目を真っ赤にしていた。「私達は一緒に旅を続けますから…」、この言葉には救われた想いがした。今回は知人に紹介された旅行社、台湾人の陳氏に全てをお任せしていた。ここ数日は花蓮の香蘭姉さんと毎日のように打ち合わせをしていただいた。何かの折にと、私の親族へのお礼の挨拶文の翻訳もしていただいた。陳氏の非を責めるわけにはいかないと感じていた。
 外の待合では現地案内人の康女史が待っていた。もう全てを承知していた。2時間の間に台湾の旅行社のトップや政治家に頼んで入管に掛け合ってくれていたらしい。私達11人は頭を切り替えるしかなかった。旅の目的を達成する為に。
 その後、国内線の最終便に乗ることができ、花蓮市内のホテルの夜食には間に合った。父の遺影と一緒に最後の晩餐。皆少し元気がなかったが、酒が回ると次第に賑やかになってきた。それにしても弟は無事に東京へ着いただろうか。
 翌朝八時には専用バスに乗り玉里へ向かった。なにしろ風水師の言う時間に間に合わなければ意味がない。花蓮市内から玉里は100キロ余り。海岸こそ見えないが東側をひたすら南下して行く。椰子やバナナ、檳榔樹や油菜畑が緑濃く延々と続く。閑話休題。台湾の東側の地名の多くは日本人が命名したそうだ。遠くて帰れん〜花蓮。私達は確かに実感した。夕刻には又同じ道を北上し、台北に飛ぶ。

 二十年前に一度しか来てないが、十時頃に見覚えがある街に到着した。花蓮懸玉里。呂家ルーツを訪ねて1そして昔は大繁盛していた写真スタジオを経営している利通叔父さんの店に着いた。スタジオを継いだ従兄弟の次男坊が店の前で待っていて、笑顔で手を振っている。そして89歳の叔父さんも出て来た。私達は自然に抱き合った。香蘭姉さんは後席の準備もあり、少し遅れてやって来た。若い頃のペギー葉山に似ていて、すこぶる明るい。しかも全身赤色のコスチューム。とても66歳には見えない。電話でのやり取りで、「香蘭姉さん、僕らはどんな格好で行けばいいかな」、「あなたのお父さんの大往生のお祝いに真っ黒な洋服を着ていたら、お父さんが悲しむわよ」。 香蘭姉さんを見て確かに納得。

 一息ついた後、墓のある大里へ向かった。台湾の男性はお金が儲かると土地を買い、女性は宝石を買うという。利通叔父さんも写真業の調子の良い時に呂家の墓地を整備したのだろう。我が父も相当寄付したらしいが、真実は分からない。
呂家ルーツを訪ねて3 十分程で墓地の入り口に到着し、車を降りた。そこにある納屋がかつての私の本籍地。一度目の訪問時にこの納屋を見て、この場所の為にいろいろと不便な想いをするのは止めようと決意した記憶がある。でも今回はその先が素晴らしく整備されていた。
 大袈裟でなく、その納屋から先の一つの丘が叔父さんの土地であった。沿道の植樹は植物博士の従兄弟の長男、勝由兄さんが全て植えたらしい。 五分程坂を上ると墓に着いた。初めて見る者は異口同音に驚嘆する。我が一行も「ワオー!!沖縄の墓みたいだ」。とにかく大きくて明るい雰囲気。屋根の中央には金色に輝く「呂」の一文字。呂家ルーツを訪ねて4
 親族が用意してくれた御馳走や供え物が墓前に並べられた。何やら普通の格好をした男性が呪文を唱えている。長い箸のような棒に五円玉のような貨幣が五つぶらさがった占い道具を地面に落としている。“ジャラン ”………この方が風水師だ。父の魂が無事に日本から到着しているかを問いかけているようだ。正確には分からないが、五つの貨幣のうち、三つ以上が表になれば良いらしい。風水師曰く「お父さんは無事に日本から君達と到着して、御馳走を食べているよ」。
 2回目の呪文が始まった。ところが上手くいかないらしく、私が呼ばれた。「お父さんにもう食べ終わったかどうか君から聞いてみてくれ」と風水師。私は父に問いかけ、貨幣を地面に“ジャラン”………全部の貨幣に表が出た。「好!それでは納骨をしよう」と風水師。
私達は大人の背丈以上ある墓の中に入った。父の骨壷の安置場所をどこにするか風水師と叔父さんが話し合っていた。そして魂がこの場所で安住できるようになのか、我々について出ないようになのか、火を焚いて煙を部屋中一杯にして外に出て、鍵をかけた。
 時計の針は11時45分を指していた。納骨の儀は無事に終了した。呂家ルーツを訪ねて5利通叔父さんが記念写真を撮ろうと言い出し、陣頭指揮して皆を整列させている。 御年89歳。さすがに同じ事を繰り返し言うようになったが、父の顔にそっくりなのが誠に感慨深い。

 香蘭姉さんは玉里には大きなレストランがないので、私達を自宅に招いてくれた。数年前に地元の名士であったご主人を亡くし、一人暮らしをしている。大層大きな家だ。ご主人の遺影の前で涙を浮かべながら遠来の親戚達が来たことを報告していた。
 予め用意されていた二つの大きな丸テーブルに座ると料理が次々と運ばれてきた。地元の調理師が屋外の特設厨房で豪快に鍋を振っている。「好吃、ハオツー」の嵐!大人は中国語と日本語。子供達は英語で、どことなく似ている背格好や顔の輪郭に、和んでいる。親戚とは不思議なものだ。まるで冷えていた身体が温泉につかると、たちまち隅々の毛細血管に酸素豊かな血液が供給されるような、身も心も自然に温まる。心が通じるとか気が合うとか、血縁とはこういうことなのだと幸福感に浸っていた。
 香蘭姉さんが気分宜しくカラOKを始めた。ざわざわしている間に、酔いに任せて少し悪戯っぽい質問をしてしまった。「5月の総統選挙はどちらに投票する?国民党、民進党?」20年前の訪問時は圧政下にあり、政治の話題はタブーであった。世界は変わり、台湾も変わった。街のあちこちで選挙運動の音が響き、ついつい口を滑らせた。その途端、口角泡を飛ばさんばかりの議論が始まった。夫婦でも意見が分かれていた。温厚な従兄弟たちの豹変ぶりにはびっくりしたが、事態を収拾する責任は私にあった。
 私は香蘭姉さんのマイクを借りて、予め用意していたお礼の挨拶文を読み上げようと決断した。私達側には中国語が分からない者もいるので、結局私は日本語で挨拶し、旅行社の康女史に翻訳文を渡した。挨拶をしている間、香蘭姉さんはずっと私の傍らに立っていた。皆シーンとなり過ぎて酔いが一片に醒めたが、何とか無事に読み終えた。
 バスの出発時間が迫っていたので、宴の最後にと思い、私は長男秀彦に目配せした。一瞬考えたようだが、立ち上がりマイクを握った。アカペラで歌い始めた。
 曲名は数年前に大ヒットした《さくら》。美しい旋律や美しい花々は、人の精神状態で随分と印象が変わるものだ。桜の花はまさに様々な心模様に左右される。父がこよなく桜を愛していたから。《さくら》の日本語の歌詞は理解できなくても、この曲想は強烈に人を惹きつける。最後のほうの小節で出す高音が聞かせどころ。彼はここが実に上手い。歌い終えると皆感激して、秀彦は一躍大スター!

 たった3日の短い旅であった。親戚に触れたのはわずか5時間。人の人生を旅に例えれば、父の始発駅でもあり終着駅でもある地へ、父を連れて来て上げたことにある種の安堵感を覚えた。風光明媚な麗しき島〜台湾の大地に立ち、温和な叔父さんや従兄弟達の人柄に接し、この旅の一場面一場面を思い出す度に、なぜか温かい気持ちになる。
 時は一刻一刻と過ぎ行き、人は生まれ、死ぬ。しかし肉体は滅びても魂は生き続けるという。ひょっとしたら………この旅は「父が我々を連れてきてくれたのだ」と気がついた瞬間、父の得意気な笑顔が心に浮かんだ。

呂 正博

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●Smoke Gets In Your Eyes ”禁煙のすすめ”

 歯科大学を卒業して早30年が経過しようとしている。卒業してすぐの3年間は静岡県熱海市にあるDr.Beech主宰の診療所で、故渡部哲人先生に手取り足取り歯科の臨床の基礎を教えていただいた。その後同級生の家内との2馬力で1982年に都立大学駅前で開業。歯周病専門医と矯正専門医のお力添えもあり、お蔭様でたいていの患者様は私の診療所で口腔疾病の治療をして差し上げられる。
 虫歯治療の基本的な考え方と歯周病治療を台無しにするある薬の話を、名曲を交えてご紹介したい。

 歯科2大疾患は虫歯と歯周病。近年顎関節症を加えて歯科3大疾患と呼ぶ。虫歯の治療は感染した歯質を取り除き、削った部分を材料で置き換えることが治療の基本となる。虫歯の治療は料理のようなものである。腕の良い料理人が新鮮で安全な食材を調理すれば、美味しいものが喰えて幸せになる。幸福=口福なのだ。
つまり質の良い詰め物の材料を選択し、担当医が適切に型を採る。しっかりとした石膏模型で、腕の良い歯科技工士が技巧物を製作することにより精密なものができあがる。そして適切にセットされた詰め物を患者様自身が衛生的に大事に噛んでいただければ、かなり長い年月は問題なく口腔内で機能する。三位一体で管理することが重要だ。
 最近の虫歯治療ではメタルフリーといって、もともと体にない金属を歯の治療材料に使用するのを避ける傾向にある。歯科用金属は20KのゴールドにしてもAg、Cu、In、Ir、Pd、Znの合金であるため、金属アレルギーを患う人もいる。増してや保険適用の12%Pd合金やアマルガム合金は金属イオンが遊離し易く、歯質が黒くなり易い。唾液を電解質として体内の蛋白質と結合し、アレルギーを生ずる。金属アレルギーの疑いがある方は皮膚科や歯科大学病院のパッチテストを受けて、どの金属にアレルギーが発生するかを鑑別する必要がある。 
 審美的にも金属色に違和感を覚える人が増加しているので、今後白色系の治療の需要が増え、治療材料の質がますます発展していくと思われる。もちろん貴金属(金や白金加金)の適合性、噛み心地の柔らかさなどは我々歯科医にとっては捨てがたい魅力である。しかし素敵な笑顔の条件はやはり白い歯ときれいな歯並びである。

 歯周病は非常に厄介な病気である。歯と歯肉の隙間に発生した歯周病菌による慢性の炎症で、不衛生によるものや遺伝的体質によるもの、不適合なかぶせ物によるものや噛み合わせによるものなど、原因は種々様々。まずは嫌気性細菌の退治が主な治療となる。ブラッシングに始まり、ブラッシングに終わるといっても過言でない。重要なのが歯磨きのトレーニング。要は治療の効果は患者様の歯磨き次第となる。我々医療サイドがいくら叱咤激励しても、実際に診療所にいる時間の他に、どのくらい歯ブラシが口腔内で適切に当てられているかが勝負の分かれ目。両者の根気にかかっている。難症例においては、歯周外科処置や咬合改善処置をしたとしても、歯磨きの協力がなければ改善が改悪となる。

 加えて歯周病を更に悪化させるものがある薬である。ある薬タバコだ。喫煙者と非喫煙者の口腔内は見た印象がかなり違う。健康な口腔内は赤ちゃんのようにみずみずしく、白い歯やピンク色の歯肉に覆われている。唾液量も多い。喫煙者の口腔内は歯にヤニがつき、歯肉が赤黒い。口臭がして、口角が荒れ、鼻唇溝が深く、ふけ顔になる。唾液量少なく、乾燥して、声も嗄れる。食べ物の味も判別できなくなる。衣服からして煙の臭いがする。

 医学的に検証する前に名曲“SMOKE GETS IN YOUR EYES”を紹介しよう。この曲はもともとミュージカル「ロバータ」の為に作曲され、ボーカルグループや多くのJAZZマン達がアルバムに残している。最近の録音の中で私のお気に入りはDAVID SANBORNや日本を代表する実力者の土岐英史氏のアルバム。土岐さんは私の師匠で、お嬢様の土岐麻子さんも数年前にボーカリストとしてデビューして人気上昇中。土岐さんのアルトサックスは何しろ音が艶っぽい。JAZZのアドリブを勉強する場合は好きなミュージシャンのアドリブをコピーするのが鉄則。ところが土岐さんのそれは音数が多いのと独特の譜回りでなかなか譜面にするのが難しい。かくして私は土岐氏に師事した。

 土岐さんは寡黙だ。ライブでもメンバー紹介以外は曲の紹介も殆どしない。大袈裟なボディーアクションもなく、上半身を少し前傾させ、一点を見つめて吹く。それでいながら美しくも激しい即興演奏で聴衆を惹きこんでいく。一方、某有名ピアニストのステージは英語と関西弁を駆使してよく喋る。曲間が長い。多才なテクニックとショーマン振りには頭が下がるが、終演後、感動をよそに物足りなさを感じることがある。JAZZマンはやはり寡黙が良い。
土岐さんはよくタバコを吸う。自分のアドリブが終わり、他のピアニストやベーシストのアドリブの最中に吸う。その姿がいかにもJAZZマンらしく格好良い。モダンジャズの創始者のCHARLIE PARKERも帝王MILES DAVISも吸っていた(別の薬?)。くわえ煙草ならぬ指バサミで楽器を吹く姿に若い頃憧れた。そういう退廃的雰囲気のあるJAZZマンが減ってきたのは少し寂しいような気もするが。でもやはりタバコは体に悪い。医学的に検証してみよう。

 WHOによると、タバコに関連した病気で死亡する人がここ10年で400万人から470万人に増加。2020年には1億5千万人に上り、そのうちの70%を発展途上国の人々が占めるだろうと予測している。

 日本の成人の喫煙率は男性で45.9%、女性で9.9%。先進国の中でも非常に高率である。特に女性の喫煙率は、40歳代以下は増加傾向にあり、20歳代(喫煙率16.1%)はこの10年で倍増となっている。
 タバコは癌の原因になり、特に口腔癌、食道、喉頭、肺癌による死亡危険度が高い。胃癌、肝臓癌、すい臓癌なども弱い因果関係があるといわれる。
癌以外にもタバコは深刻な病気の原因となる。主なタバコによる生活習慣病を下に記す。

虚血性心疾患(狭心症、心筋梗塞)
脳血管障害(脳卒中、脳梗塞、脳出血、くも膜下出血)
動脈硬化
高血圧
糖尿病
骨粗しょう症
歯周病

 歯科の分野では、口腔咽頭癌が3倍になり、歯周病は5〜7倍になる。口腔癌は喫煙率に比例するように男性が女性の3〜4倍も多い。

口腔癌の発症部位    舌(62.9%) 口腔底(11.9%)
その他 歯肉、口蓋、口峡部、唾液腺、峡粘膜 これらが、潰瘍や細胞の異常増殖、白色病変、粘膜の異常としてあらわれる

タバコの煙の成分は⇒ 4000種類以上の化学物質、40種類以上の発ガン物質あり

代表有害物質: ニコチン、タール、一酸化炭素
⇒ニコチンの毒性や血管収縮作用は歯周病の症状をあらわれにくくする。
⇒加えてニコチンは歯根面のセメント質と結合し、治療の効果を台無しにする。

タバコの煙のPHは⇒  主流煙と副流煙で異なる

喫煙者が吸う主流煙 = 酸性    
受動喫煙者(間接喫煙)が吸う副流煙 = アルカリ性
⇒アルカリ性は刺激強く、目をちかちかさせ、喉が痛くなる。
⇒有害物質は主流煙より多い。

タバコは吸っている人だけでなく、周囲の人の健康にも影響を与える。

家族への影響⇒夫が多量に吸う場合、奥さんは少量の喫煙をしたのと同等の肺癌の危険性あり
子供への影響⇒親がタバコを吸う場合、80%の子供の歯肉に黒ずみが見られる
赤ちゃんへの影響⇒妊婦は副流煙だけでも、死産や早産、流産の危険が増し、低体重児や奇形児が生まれる可能性がある

すなわち タバコを吸う人⇒ゆるやかな自殺  周囲の人たちに対して⇒不本意な殺人

 日本では諸外国に遅ればせながら都心部の屋外の禁煙条例などは整備されつつある。しかし屋内、つまりレストランや小規模の食堂などの禁煙分煙は未だ法規制に至ってなく、それぞれの飲食店の自由裁量に任されている。都心部のレストランは分煙化が進んでいるものの、実際に嫌煙家の従業員の健康管理となると、ただの分煙では済まされないだろう。

 海外の医学学会に行って日本人を探すときは、煙の上がっているところに行けという。医者も歯医者もまだまだ自分の健康だけは特別という意識があるのか、喫煙者が多い。見るに見かねて友人の東京歯科大学の教授が自ら禁煙して、学生達を指導し始めたという話もある。患者の立場からすれば、手にタバコの臭いがする医者や歯医者に治療されるのは如何なものかと思うのだが。料理人にしてもしかりである。大切な味蕾がやられて、そのタバコの臭いがする手と麻痺した味覚で客に美味しい料理を提供できるのかと心配してしまう。

 最近街中で男性は勿論だが、若い女性の歩きタバコが目立つようになった。吸っている姿を知人に見られたくないのか、吸える場所が減っているせいなのか。女性の場合は閉経後の骨粗しょう症が問題となる。その為にも若い頃からの骨の貯蓄が必要だといわれている。喫煙は確実に若い女性の骨密度を低下させる。それにしても喫煙者とのキスの味は相当苦いだろうと他人事ながら心配してしまう。

 最近厚労省研究班の調査でタバコが原因で病気になり、死亡する人は年間20万人近くにのぼると発表された。80〜90年代の喫煙率は男性54%、女性8%。05年での喫煙率は男性39%、女性11%。タバコ関連死亡者は今後、男性で減り、女性で増えるという。確かに私の診療所で患者様に禁煙をすすめると、男性は割りと素直に禁煙を志す方が多い。ところが女性は意外と開き直られて(なぜか敬語)、買い置きを全部吸ってからとか、次の誕生日を迎えてからとか、新しいボーイフレンドができたら止めるとか言われる方が多い。研究班は「健康対策として、増税を含めたタバコ対策が最も必要」と指摘している。
 我々医療サイドの人間は行政に任せることなく、なぜ禁煙しなければならないかを真摯に社会に伝えなければいけないと思う。

SMOKE GETS IN YOUR EYES”の和訳は“煙が目にしみる”。
いかにも優雅な曲想だが、実際のタバコは“SMOKE GETS IN YOUR BODY”。
タバコはあなた自身の体と、そして他人の体を蝕んでいく

さて、これでもあなたはタバコを吸いますか?
禁煙の薦め

呂正博

参考文献:石井正敏著 タバコをやめよう
推薦CD:土岐英史 「IN A SENTIMENTAL MOOD」、DAVID SANBORN 「PEARLS」

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●THE WEDDING SONG 夫婦新潟演奏旅行記

 趣味で音楽をやっていると、何年かに一曲は“これは俺のだ!”というオイシイ曲に巡り会うことがある。つまり私の演奏技量が高くない故に、技巧的テクニックは必要なく、テンポも速くなく、しかもメロディが美しい曲と自ずとなっていく。ふり返ると私の好きな曲はそういうのが多い。
 2007年に招待された結婚式で起きた珍事を交えて、名曲をご紹介したい。

 2006年の秋の夜長電話が鳴った。かつての私の診療所の代診、アヤ子先生からだ。彼女は私の同級生であった組織学の故佐々木教授の紹介で「呂君、とても優秀な教え子がいるので、君のところで臨床を見せてやってくれないか?」と相談を受けたのが始まり。昭和大学歯学部を2番で卒業した才媛。しかも美人。教授の肝いり。断る理由はなかった。

 アヤ子先生は新潟の由緒ある浄土真宗の寺の娘だ。確か三姉妹か四姉妹の中娘で、寺の跡継ぎがいないらしい。しかし驚いたのは経が読めるのだ。幼少の頃からお父様の経を聞いているうちに自然に覚えたらしい。診療所の休日には都内の檀家に新潟から送られてきた袈裟を着てアルバイトに出かけていた。そのせいか唯一欠点があるとすれば日常会話の鷹揚がなかったことぐらいか!?

 そんな彼女から珍しく「呂先生、私結婚しまーす!」と明るく弾んだ声。「来年の3月3日、英美先生とご一緒に新潟へいらして下さい。つきましては主賓のご挨拶をお願いしたいのです。」ときた。

 学生の頃から今日に至るまで多くの結婚式に出席したが、私の場合身分はバンドマンである。会場となるホテルも表玄関からでなくいつも荷物搬入口から出入りした。私は管楽器だが他の電気楽器奏者のアンプやドラムセット、PAなどの機材を運ぶ必要がある。手伝いをするのがアマチュア音楽家の流儀である。

 つまり主賓も挨拶も生涯お初。ついついアヤ子先生の明るい声に押されて「一曲演奏してあげるからピアノ用意しておいてね!」と電話を切った。しかしよくよく考えてみるとまずは主賓の挨拶をしたとする。演奏は最後のほうであると推測すると二度も人前に出ることになる。これは出過ぎだ。しかも挨拶は苦手。式の一ヶ月前頃私は提案した。「二度も出番があるのは多すぎるから主賓の挨拶は遠慮したい。演奏だけにしてくれないかな?」彼女は「新郎に相談してみます。」といい、程なくOKが出た。プレッシャーから開放された。“逃げに成功した”のだ。

 2007年3月3日。私達夫婦は正午より始まる祝宴に間に合うように上越新幹線で新潟に向かった。その年、極端に雪不足に悩むスキー場を眺めながら。車内で私は用意した曲との出会いを思い出していた。

 それは十余年前に友人から借りたCDにあった曲だ。2時間ほどのドライブの最中に初めて聴いた。あまりにも美しいソプラノサックスの旋律、ゆったりとしたテンポ、叙情的なピアノの伴奏に感動した。一人の車中で繰り返し聴いた。帰宅してすぐに家内に聴かせながらタイトルを調べて、二人で興奮したのを覚えている。 

“THE WEDDING SONG” by Kenny G

Kenny G は生粋のJAZZファンからは敬遠されがちだ。テクニックはあるがいわば日本人向けにアレンジされた中華風料理のような、本物のではないということか。それにしてもこの曲は傑作だ。娘がいる父親には特にグッとくる曲想。“娘は絶対に嫁に出さないぞー”と泣き叫ぶような。

 娘のピアノの先生にこの曲を聴いてもらったらピアノ譜を書いてくださった。「タカちゃんとの人前芸に使ってくださいな!」。以来この曲の伴奏はいつも娘のタカちゃんと決めていた。その年はあいにく上海師範大学に留学中で、祝宴には家内が伴奏を担当することになった。「ママ、絶対パパの前では練習しちゃ駄目だよ。すぐ怒るから。ある程度出来上がってから一緒に合奏するようにね。」と上海からのアドバイス。家内もクラッシクピアノはある程度は弾けるが、人前で演奏するのは高校の時以来。しかも私との共演も初めて。失敗は許されないとは互いに感じていたはず。

 ホテル日航は新潟駅よりワンメーター。信濃川沿いに聳え立つ高層建築。宴会場からの眺望が売りだ。リハーサルを終え祝宴の開始を待った。間もなく私達は案内された中央の席についた。アヤ子先生のお父様は探そうとしなくてもすぐ目に入ってきた。住職の和服姿である。大きくていかにも骨相が良い感じの人。

 新郎新婦が和服姿で入場してきた。初対面の新郎は優しそうな好男子。美男美女のカップルだ。久しぶりのアヤ子先生は本当に着物が似合い、幸せそう。
すぐに新郎側の主賓の挨拶が始まった。最近の結婚式は仲人を立てないことを初めて知った。その後は新婦側の私の隣の男性が主賓の挨拶をするのだと思っていた。しかし悲劇は次の瞬間から始まった。

 新婦側の主賓のアナウンスがあった。「新婦アヤ子様のご恩人である呂先生は、後にサックスの演奏をしていただきますので、ご挨拶は演奏の前にまとめて頂戴いたします。」会場の皆の視線を浴びた。“話が違うぜ、アヤ子ーー!俺は主賓を降りたはずだ!!”。私は凍りついた。悪戯がばれて飼い主に怒られた愛犬のように。“もう逃げられない!”

 その瞬間の私の引き攣り様といったらなかった。かつて経験したことがない程の周章狼狽。それからが必死だった。やにわに手帳に思いつく単語をメモした。簡単なお祝いの言葉や彼女の診療所での研修の様子などはある程度用意していたとはいえ、しかもご友人達の挨拶や、とりわけご親戚の医学博士の示唆に富んだ、薀蓄のある話のうまさに焦った。今頃は新潟の大吟醸をゆっくり味わっているはずではなかったか。普段は酒飲みの我が夫婦も、二人ともコップ半分のビールも飲まずにいた。

瞬間うつ病宣言!

「あなた大丈夫?」「お前こそ間違えるなよ!」・・・・落ち着け!次が出番らしい。

 私はソプラノサックスを片手に、そしてピアノの上に置いた手帳を覗き見しながら語った。声が震えていた。子供を褒めて育てることや、愛情のふりかけの話など・・・・。曲の紹介あたりでようやくホットした気分になった。

 そして家内と顔を見合わせ私は“THE WEDDING SONG”のカウントを開始した・・・・

 会場は静まり返った。前奏の8小節が鳴ると、一つ言い忘れたことを悔やんだ。実は私のフランスセルマー社のソプラノサックスは私達夫婦が結婚するときの結納品なのだ。28年前に結納の半返しとして家内の実家から贈られた私達夫婦のお守りのようなもの。人前で演奏するときにこの“幸福を呼ぶ笛”の話をすると、皆感心したり惚気るなと呆れられたりで、その場の雰囲気が和むのである。

 いよいよ曲も中盤にさしかかり最後の4小節。ここからは一拍ずつコードが変わりピアノの左手の運指が難しい。

 “頑張れ、英美ちゃん!ここを乗り切ればパーフェクト!!”

 最後の鍵盤を弾き終えると一斉に拍手が鳴り響いた。私達の演奏技量はともかく、この曲の叙情性に多くの方が感動を覚えたに違いないと確信した。新婦のお父様の心情を察する余裕まではなかったが。私は想定外のスピーチとたった一曲の演奏にまるでフルマラソンを走り終えたような疲労感と同時に達成感を感じた。席に戻ってコップ半分のビールを飲み乾そうとしても、まるでイップス病のゴルファーのように右手が震えてうまく口に運べなかった。“お役目終了。アヤ子先生お幸せに!試練を有難う!有難う、新潟大緊張!”

 これから先は結婚祝宴のクライマックス。新郎新婦それぞれがお礼の言葉を述べ、ご両親への花束贈呈。この瞬間に家族にしか分からないさまざまな思い出や結婚式までの道程のご苦労が一挙に凝縮され涙として表れるのだろうか。年のせいか涙腺がゆるむ。

 新郎のお父様が涙ながらに閉めのご挨拶をされ、これでお開きと思いきや、新婦のお父様が特別にマイクを握った。「呂先生の曲を聴いて不覚にも泣いてしまった。よもや娘の結婚式では泣くまいと決意して今日を迎えたが堪えきれずに・・・・」“もう僕の名前は出さないで!”と飼い主にお手をして許しを請うワンちゃんのように、私は着座のまま深深と一礼した。

「最後に一句詠ましていただき、お開きとさせていただきます。」

むすめ嫁す   寂しさのうち   雛祭り  (新婦父作)

 呂正博

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●海外演奏旅行記  - Fly To New York! -

 仕事柄、海外に行くことなんて滅多にない。この度ひょんなことからNew Yorkに旅する機会を得た。 しかも長年私が愛用する楽器を携えて。

 実は去年の春頃、ある矯正学会の大会会長を務める友人から誘いを受けた。 2006年3月2日から三日間、New YorkのJazz At Lincoln Centerで第一回舌側矯正の世界大会を開催する。 場所が場所故にレセプションの席で日本の歯科医師を代表して演奏しないかという話が舞い込んだ。 しばし考えたものの、若い頃からの憧れの地〜Jazzの本場New York〜幾つかの不安があったものの私はその話に乗った。

 準備期間は10ヶ月。演奏からやや遠ざかる昨今。 メンバーは?曲目は?演奏時間は?Jazz At Lincoln Centerってどんな?その間の診療所は?会務は?などなどいろいろな関門が立ちはだかった。 でもとりあえず私は稽古を始めた。
 ほどなくメンバーは決まった。 当初ジャズピアノを習い始めたばかりの二十歳の娘‘タカちゃん’とのDuoだけでやろうと考えた。しかし1時間半のステージはとてももたない。 そこで東ワシントン大学のジャズ課で作曲を3年勉強した杉本‘周’介君にピアノをお願いした。 そして知人の紹介でNew York在住ジャズマンのMarvie朝倉さんがベースを引き受けてくれ、現地で落ち合うことにした。 朝倉さんは10年ほど前に日テレのタモリの番組『サウンドイン S』に3年間世良譲トリオの一員として出演していた。 50歳を過ぎた頃に一念発起して渡米して5年、Jazz一筋の一流ミュージシャンである。

 周ちゃん曰く“せっかく本場でやるんですから、オリジナルで勝負しましょう!”という気合の入りよう。 素晴らしい作品を10曲も用意してくれた。 そのうちの1曲がなんとも素敵だった。 お聴かせできないのがとても残念。 たった4小節の前奏の中に今回の旅の想いの全てが表現されているようだ。 まさに飛行機が全速力で滑走路を走り、機体が浮いた瞬間を描写したような旋律である。 出来立てほやほやでまだその曲の題名が決まっていなかったリハの初日に“呂さん、名前考えて下さい!”と周ちゃんに言われた。 私は迷わずその曲のタイトルを決めた。  “Fly to New York!”

 2月27日私の家族とピアノの周ちゃんは14時間のフライトを終え、ケネディー空港からヒルトンホテルへと向かった。 外気温は零下4度。 なにしろ生まれて初めての米国本土。しかも旅程の最終日が本番。 私はある種独特な緊張感に包まれた日々を送った。フェリーから臨むNY加えて飛行機の中の微妙な気流のせいで私の喉は次第に赤く腫上っていた。 “やばいぞ!咳がでたら楽器が吹けない。”
 新たな問題も発生した。 ホテルに着くやいなや、ソフトケースで携帯したアルトサックスの低音部の鳴りがおかしいことに気がつき大層慌てた。フライト中気をつけたつもりでも、何かの拍子に振動を与えたのかもしれない。 すぐさま朝倉さんに連絡し、評判の楽器修理工房を訪ねて事なきを得た。
 New Yorkは長方形の皇居ぐらいの広さのセントラルパークを中心に、東側に銀座のような高級ブティックや高級マンション。 北側にちょいと犯罪の臭いがする下町的ハーレム。 西側に上野の森的リンカーンセンターなどの芸術村。 そして南側に新宿のようなタイムズスクウェアーや横浜のようなチャイナタウンがある。 100年以上の古いビルとモダンなビルとが混在し、見事に碁盤の目のように調和している。 零下の世界をニューヨーカーは足早に歩いている。 痺れるような寒さが身に凍みる。

NYでのリハーサル 本番前日、私と娘と周ちゃんは予め朝倉さんが用意してくれたタイムズスクウェアー近くのスタジオに向かった。 一流プロとのセッション、緊張しないわけがない。 曲の説明を終え、明日のオープニングの“Fly to New York!”から練習を開始。 世界で一番高いギャラを要求する娘のノルマは2曲。 ルバートからのインテンポがなかなか決まらない。 “がんばれ、タカちゃん、Tiffanyが待っているぜーい!”
 約3時間のリハーサルを終えた。 家内と合流した私たちは朝倉さんの案内で横揺れのするエレベーターに乗り、夕暮れのEmpire State Buildingの頂上へ向かった。 見渡す限りのビル群にさすがの東京っ子もびっくり!田舎から来たと思われるそばかすだらけの米国人もびっくり! 筆舌に尽くしがたい夕焼けの美しさと刻一刻と点灯し始める高層ビル群にしばし言葉を失う。
“これがNew Yorkか!”

 3月2日、朝から雪。 午前中、家族と周ちゃんは買い物や美術館めぐり。 風邪気味の私は念のため外出を控え、ホテルで譜面のチェックやロングトーン。
 長野の八ヶ岳山麓に住む周ちゃんは、都会が苦手と言うわりには持ち前の英語力を駆使して旅を楽しんでいた。 観光コースになっているBlue Noteなどには行かずに、ハーレムのマニアックなジャズクラブに毎晩二人で闊歩した。行きはタクシーでも、深夜は拾えないので地下鉄で帰る。 フェリーや地下鉄は24時間営業。 New Yorkには最終電車という言葉がないのだ。 決して明るくない車内に幾人かの黒人がジロリ・・・・“落ち着け!New Yorkは変わったのだ!”
 周ちゃんが買い物から帰ってくると頭痛を訴えた。 外気温零下7度。山の生活で寒さには強いはずだ。 職業的楽士にとっても今宵のステージは特別なものなのかもしれない。 薬効あり会場に出かけるころには回復していた。 新調したスーツに身を包み、楽器を持ってホテルを出た。

 Jazz At Lincoln Centerは2年前にリンカーンセンターから独立し、コロンバスサークルセントラルパークの左下のコロンバスサークルに面したビルの中にある。 クラシックとジャズの奏法を使い分ける知的トランペッターであるWynton Marsalis氏が監修し、大・中・小の3つのホールから成る。 なかでも階段式500人収容の中ホールは秀逸だ。 舞台の背景が総ガラス張りで、セントラルパークや街並みが一望できる。 朝からの雪景色が一層ゴージャスな雰囲気を醸し出している。    
“まいったぜ、Marsalis ! ”
 私達はフランス人の学会長や友人の大会会長夫妻の歓迎を受けた。 ステージでサウンドチェックの後、控え室へ通された。 部屋にはSteinwayのアップライトピアノまである。 “ここまでやるか、Marsalis !!” あと1時間で本番だ。
 なにしろ華やかな矯正学会であった。 体格のいい黒人のウェーターや、皮膚占有面積の少ない衣服を着たウェートレス。 “ウァオー!!!”私の目には各国の学会員でさえ映画のワンシーンに出てくる紳士淑女達のようだ。 4月の保険改定を前にしてこのような自由な世界が・・・・?何を無粋な!今宵の俺様はジャズミュージシャンだぜーい!

 本番10分前、スタッフに誘導されステージへ向かった。 艶消しのNew York Steinwayが妙にまばゆい。 蓋が開けられたグランドピアノの前は楽士にとっても特等席。 二台のSelmerのサックスをスタンドに立てかける手がわずかに震えている。 対座式のコンサートと違い、カクテルパーティーはザワっとしているが意外とやり易い。 呂 正博NYでの演奏瞬間芸的芸術はビールの泡、いや、せめて今宵はシャンパンの瀟洒な泡となれば良いのだ。ただSwingさえすれば良いのだ。 15歳からの道楽のせいか、楽器を構えるとむしろ落ち着く。この演奏旅行を結婚25周年記念とした連れ合いも、現地在住の友人達も飛び切りお洒落して駆けつけてくれた。

 英語で私達のアナウンスが始まり、RO’s Jazz Bandは完全に本番仕様の顔になった。
私は“Fly To New York!”のカウントを開始した。

呂  正博 

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